友達の詩

昨日から風邪薬を飲みながら過ごしていたが、今朝は身体が熱くて節々が痛い。あーあ、遂に発熱。他の風邪の症状も強くなってきたようだ。諦めて、今日は休むことにする。秘書さんや同僚にメールを書いた後、ずっとベッドで眠る。
時折起きだしてYouTubeを見たり。こんな時は日本の歌がしっくりくる。偶然見つけて感動したのが、岩崎宏美の歌う「友達の詩」。中村中という方が作詞作曲しているらしい。「友達」というキーワードから連想される「青春」などのポジティブなイメージを全く裏切る歌詞。
「手をつなぐくらいでいい / 並んで歩くくらいでいい / それすら危ういから / 大切な人は友達くらいでいい」
「手をつなぐくらいでいい / 並んで歩くくらいでいい / それすら危ういから / 大切な人が見えていれば上出来」
「手をつなぐくらいでいい / 並んで歩くくらいでいい / それすら危ういから / 大切な人は友達くらいでいい / 友達くらいがちょうどいい」
確かに、これまでも「恋人」に対比される言葉として「友達」という言葉が使われることは多かった。でもここで歌われる「友達」という言葉はこれまでのどんな「友達」という言葉よりも、痛みを伴った、苦しくて辛い負のベクトルを有している。しかも、本人はそのネガティブなイメージの「友達」にすらなれないかもしれない危険を心から感じている。「手をつなぐ」→「並んで歩く」→「友達」でいる(になる)→遠くから「見えていれば上出来」、と徐々に距離を拡げてでも何らかの関係を保ちたい。どんな形であれ自分を受け入れて欲しい、と願う。今この瞬間には難しいかもしれない。難しいだろう。「無理だと気づく」。でもせめて未来には何とか、と思う。「忘れた頃にもう一度会えたら / 仲良くしてね」。時間が経てば「仲良く」なれるかもしれない。もしかしたら「手をつなぐ」よりも近づけるかもしれない。でもそのためには一旦は「忘れ」られなければならない、という条件が入る。しかしながら、これまで繰り返してきた「触れるまでもなく先の事が見えてしまう・・つまらない恋」から得た数々の「胸の痛み」「傷」からは、それすらも叶わないことを本能的に悟っている。全ての非は自分にあるから・・・。
曲の構成のためか、最後は「友達くらいでいい・友達くらいがちょうどいい」で終わっている。2番の歌詞よりも相手との距離が少し近くなる方向に動く。この動きは大きい。この動きが幾ばくかの光をもたらす。救いが少し見え隠れする。これがなければ本当に地獄の詩だと思う。
とても痛々しい歌詞。歌詞を繰り返し読むほどに、一言一句が別の言葉に代替できないと感じる。自分の場合メロディー中心で音楽を聴いているらしく、日本の歌であれ歌詞は殆んど入ってこない。歌っても感情移入しないことが多い。でもこの「友達の詩」は歌詞から入った珍しい例。メロディーとともに本当に素晴らしい曲だと思う。きっと自分にとっての一生ものの楽曲の一つになるはず。

夕方になって「今頃UNILDOJOで剣道の稽古をしているなぁ」と思い、外を見ると、また雪。かなり寒そうだ。症状は風邪薬の影響もあるだろうがちょっとずつよくなっていきているとは思う。夕飯にはリゾットを作った。ちょっとヘビーかとも思ったが、しっかり食べた。明日はもっとましになっているだろう。