Something to remember

今日の自分は今日でおしまい。明日はまた新しい自分が生まれてくる。
一日が一生、だな。今日失敗したからって、へなへなすることない、
落ち込むこともない、明日はまた新しい人生がうまれてくるじゃない。
それには、今日を大切にしなかったら、
明日はありませんよっていうことでもある。
今が一番大切だってことだよ。
今自分がやっていることを一生懸命、
忠実にやることが一番いいんじゃないのかな。


自分の地金は自分が一番よう分かっているでしょう。
大事なのは、人からすごいと言われることじゃない。
人間は金持ちでも貧乏でも、頭が良くてもできが悪くても、
だれでもいつかは死ぬ。
死んだら終わり。だれも変わらないんだ。
大事なのは、今の自分の姿を自然にありのままにとらえて、
命の続く限り、本当の自分の人生を生きることなんだな。

生き残るんじゃなくて、生き「残される」ものなのかもしれないな。
なにかお前さんはざんげしろ、もっと世の中のためになれって、
そういうことでもって仏さんは、この世に残しておいているんだよ。
命が残されているっていうことは、今何歳であろうと、
まだまだしなくちゃなんないことがあるのとちがうかな。


どんなひどい目にあっても、時間がたてば必ず、
いろいろなことがあったなあ、と思える時が来るよ。
後になってから意味が分かることもある。
だから、あせることも、自分はだめだと思うこともないよ。
目の前のことをただ、一生懸命やるだけだよ。
人生はその時だけじゃないんだって。


人はだれもが、どこにいても何をするにしても、
「何のためにきた」「なにするべきか」っていう宿題を
仏様から授かって生きているんだよな。


自分なりに腑に落ちると、人はついそこで考えるのをやめにしちゃう。
でも、答えが分からないといつまでも考えるだろう。
肝心なのは答えを得ることじゃなく、考え続けることなんだな。


自分自身が感じて味わって初めて本当の意味で、「知る」ことができる。
人生は自分の力で知っていくしか仕方ないんじゃないかと思うんだよ。


ぼくは、家庭のことも子供のことも分からない。
でも仏さんが、本当なら味わえなかったことを違った方便で、
世間様と同じように味わわせてくれているんじゃないか。
仏様の智恵、「仏智」ってこういうことかなあって。


仏さんはいつも心の中にいる。
自分の心の中に仏さんを見て、歩いていくことなんだな。


幼いころの親が本気で心配してくれたり、
おぶって病院まで走ってくれたり、
そういうことは、いつまでも忘れないもんだな。
ふれあいとか絆とか、
肌の感覚でもって覚えているものなのかもしれない。


行の最中、力尽きてここで倒れて死んだら、
ぼくの体は小山の土になるんだなあと思った。
それがうれしいような気がした。
いろいろな生き物たちの栄養になれるなら、それは幸せなことだなあと。
今でも、どこかを歩いている最中にバタッと倒れて、
そこで埋めてもらって土に還ったらいいなあと思うんだよ。
外国なら、「どうやら日本人のようだがなあ」
なんて言われたりしてな。
・・・・・・・・・・・・
死ぬときは「じゃあ、ちょっとそこまで出かけてきますわ」
なんていうのがいいな。


桜には、日本人独特の悲壮感のようなものがあるでしょう。
散っていく情景に寂しさを感じて、人生の最期を重ね合わせたりして。
でも、桜をずーっと見ているうちに、
桜にしてみたらそんなふうに思われたくないんじゃないかって、
思うようになったんだよ。
桜は咲くことで精いっぱい、「今年も咲きましたぞ!」って
みんなに教えてくれているんじゃないって。
来年はもっと良い花を咲かせようと思って、
またがんばってくれているのとちがうかなって。
桜がぼくにそう教えてくれたような気がしたんだよ。
散ったからといって、寂しがることないんですよって。
いい花に咲いて、みんながお花見に来てくれて、
「今年も咲いた咲いた」ってみんなに喜んでもらうことに、
咲くっていうことに意味を感じて、誇りを持っているんじゃないか。
よし、来年はもっといい花を咲かせましょうってね。
・・・・・・・・・・・・
力の限りに咲き誇る桜を見ながら、ぼくもみんなに楽しまれたり、
喜ばれたりするよな生き方をしてみたいなあ、
そんな生き方ができたら最高だなあ、なんて思ったんだ。


ものごとを一つだけ見て、
パパパパッと見てやってちゃいけないってことだよ。
ゆっくりと構えてな。
仏さんは、人間がたわいのない子供みたいな言いっこしているのを見て、
「知ったかぶりしおって」ってあきれているかもしれないよ。


生きとし生けるものの命はみな繋がっている。
そう思うと、死は恐ろしいもの、寂しいものではない。
一日でも長く生きて、良い結果を残していけば、来世に繋がっていく。


from 「一日一生」